その後、刀伊勢は筑前国の怡土郡、志麻郡、早良郡 を襲い、4月9日には博多を襲撃しました。藤原隆家ら指揮官は、防衛施設である博多の警固(けご)所に大宰府や近隣の精鋭たち を集めました。
刀伊勢は警固所を焼こうとしましたが、大宰権帥藤原隆家と大宰大監大蔵種材らによって撃退されました。
来襲した刀伊に対して、日本側は弓矢を主戦力として粘り強く戦い、10人以上の刀伊を討ち取り、一時的に撃退に成功しました。
2日後の4月11日には、日本側の防御態勢も整い、多くの優れた兵士たちを配置で きるようになりました。そのため、翌12日の襲撃に際しては40人ほどの刀伊を討ち取って敗走させました。
博多上陸に失敗した刀伊勢は、4月13日に肥前国松浦郡を襲撃しましたが、松浦党の祖源知に撃退され、対馬を再襲撃した後に朝鮮半島へ撤退しました。
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